倭の島のモノ語り / 稲垣尚友

何かにつけ、豆腐と餅

わたしは朝からマエブラ(屋号)の家普請の加勢に出ていました。二十人近くの男が棟梁の指示の下で働いていたのです。他にも三人の加勢人がいるのですが、三人は施主から弁当を持たされて、魚獲りに出かけていました。この連中が釣り上げた魚が夜の棟上げの宴席で振る舞われるはずです。大勢の女連中も加勢に来ているのですが、勝手方の仕事を受け持っているので、普請の場には誰も顔を出しません。十時と三時のお茶を出し、昼食も準備しなければならないからです。

マエブラは一世一代の大仕事の最中でした。これまでの笹茅葺きの屋根をルーフィングフェルト張りの屋根に代えることにしたのです。笹茅は、夏は涼しく、冬は暖かいのですが、その補修には手数が入り用です。自分の子どもたちが島に戻ってくる気配はないし、人を頼りにするのも限りがあるしで、思い切って改築することに決めたのです。

棟梁には東北隣りの中之島から豊恭秀オジを招きました。この棟梁の本名はキョウヒデですが、皆はチョウヒデ小父(ジイ)と呼んでいました。そのオジは戦後に奄美大島の宇検村から中之島に入植した開拓者です。いつのまにか大工仕事が本業となり、中之島の開拓部落の家屋のほとんどはチョウヒデジイの手になりました。カゴシマ(鹿児島市周辺のこと)から取り寄せた市販の角材も使いますが、施主の希望に応じて、山から樹をきり出し、それをチョウナ掛けして製材することもいといません。

マエブラの改築の主な仕事は、屋根の勾配を変えることです。その用材のほとんどは島の奥山から運び出したヒトツバ材でした。槇のことですが、この材はシロアリの害をうけないのです。どんな化学成分が含まれているのは分かりませんが、こうした知恵が古くから活かされています。

すでに七十本は、施主である福太郎ジイが庭先まで運び終えていたのですが、棟梁も手を貸していました。福太郎ジイが若いころに植えた苗が、直径二十センチの丸太に生長していました。棟梁は笑いながら皆に洩らすのでした。

「山から材を切り出しての細工(大工のこと)は、これが最後かも知れんなあ」

と、すでに六十歳に近くなった体にはこたえる仕事のようでした。

これは70CCのバイクである。人間以外であれば たいていの物を運んだ。潮、流木、魚、焼酎、プロパンガスなどなど。 これは70CCのバイクである。人間以外であれば たいていの物を運んだ。潮、流木、魚、焼酎、プロパンガスなどなど。

わたしは仕事の途中で、福太郎の連れ合いであるマサエバアに呼び出され、海岸に行って潮を汲んでくるようにと指示されました。ついでに説明しておきますと、バアとは小母のことであり、婆のことではありません。マサエは四十代の後半です。子どもをもうければ、皆がバアなのです。

わたしに声が掛かったのは、出働者のなかでバイクを持っているのは他にいなかったからです。これは大声では言えないのですが、そのバイクにはナンバープレートが付いていませんでした。道路交通法では、どんな車輌でもナンバープレートを車体の後部に付けるのが義務づけられているのですが、島で付いているのは教頭先生のバイク一台だけでした。これは1970年代の話であり、2010年の現在ではすべての車輌はプレートが付けられています。

当時、使える車輌としては、他に青年団の一トントラックと、建設会社の二トンダンプがありました。どれも車検切れで、廃車手続きをすませていました。「けしからんじゃないか!」などと、無粋なことは言わないでください。車検を受けたくても、車検場は島にないのです。鹿児島市内まで運ぶとすれば、往復の船賃だけで、車体代を上回ってしまいます。もっとも、これは中古車の代金ですが。また、接岸港がないので、沖掛かりの定期船に運ぶのはひと仕事です。二艘あるハシケ舟、これは1トン前後あるのですが、この小舟を横にくくりつけて、その舷側に長板を敷きつめ、その上に車を載せます。それを沖まで運んで、本船の巻き揚げ機で積みこむのです。少し波浪が高いとなると、積み荷は次便に回さなければ危険です。それでも、車検を通せとの号令が発せられるのならば、その前に、車検場を島々に設けるのが筋でしょう。

これはへ理屈を通そうとしているのではありません。同じことは郵便制度にもいえるのです。全国どこに行っても郵便制度が利用できる、というのもまやかしです。確かに島にも郵便物は届きます。郵便書留も為替も届きます。それだから、定期船の十島丸の船室の脇にはオレンジ色で「〒」の印がペイントされています。郵便船の役目も果たしているのです。

郵便為替や現金書留は届くのですが、その反対に現金書留や為替を出すことはできません。そうした送金制度が使えることすら、ほとんどの島民は知らないのです。知らされていないのです。現実に通用する制度は「判取り」という、聞き慣れないものです。

どのようにするかというと、島からどこかに送金したければ、まず、島にいて役場の委嘱を受けている駐在員という名前の係の人に、現金を入れた封筒を持参します。駐在員は封筒の中味を確かめてから、送金者と受領予定者の名前と金額を『判取り帳』に記帳し、そこに自分の判を押して、「間違いなく受け取りました」という証拠を残すのです。そして駐在員は、定期船が入港した日に、ハシケ舟に乗って沖掛かりの本船に出向き、事務長に現金入りの封筒を手渡し、かわりに受領印を『判取り帳』に押してもらいます。手数料はなしです。

こんなシステムは郵便制度としては認められていません。それで、「よろしくない」との苦言が当局から吐かれました。それならば、郵便局を設置してくれと、島側から申し出たのですが、いまだに局のない島が多いのです。結果は黙認ということになり、現在にいたっています。

部落から1.5キロ離れた船着き場へ降りていく道である。この道が開通してから、一日が長くなった。それまでは、角材一本を部落まで運び上げるのにも、山道を2時間かけて往復していた。 部落から1.5キロ離れた船着き場へ降りていく道である。この道が開通してから、一日が長くなった。それまでは、角材一本を部落まで運び上げるのにも、山道を2時間かけて往復していた。
未舗装の道だと、豪雨の後は真ん中に深い溝がえぐられる。バイクはそうした溝を避けて走るから、歩く速さとさして変わらない。それでも、重さから開放されるのは、何よりもありがたい。 未舗装の道だと、豪雨の後は真ん中に深い溝がえぐられる。バイクはそうした溝を避けて走るから、歩く速さとさして変わらない。それでも、重さから開放されるのは、何よりもありがたい。

話を本筋に戻しましょう。バイクを持っている人は多くはないので、なにかの行事や祝い事があると、わたしは決まって潮汲みを頼まれました。島の宴に欠かせない食材といえば、餅と豆腐です。その一方の豆腐作りのニガリとして海水が使われます。豆腐屋や魚屋や、餅屋がある風景を頭の中から取り払ってください。島内で商いらしきものとしては、焼酎を売る家が一軒あるだけです。一度、台風の連続で、定期船が三週間寄港しないことがありました。まず底をついたのがタバコで、次に焼酎でした。島ではヤマと呼んでいる自家製の芋焼酎を造っていたのですが、一度、税務署から勧告を受けてから、作らなくなりました。これも片手落ちの行政です。それ以降、男たちの熱い願いが一軒の焼酎商いを生んだのです。

バイクが島にもたらされてからまだ四年しかたっていませんでした。それ以前は徒歩で用を足していました。車道というものがなく、テゴという名の背負いカゴの中で一升ビンをカタカタ鳴らしながら、汲みに行ったものです。

わたしは、バイクで浜に降りて行きました。船着き場ができている地点よりも西の水際で潮を汲みました。言わずもがなのことですが、いくら小さなハシケ舟であっても、船が出入りすれば海水は汚れます。エンジンオイルが流れ出したり、人が不用意に投げ捨てたゴミが海に浮かんだりするからです。近ごろでは、船着き場の上の山が牛の放牧場になったので、牛糞が雨で海に流れ出ることもあります。大きな波のひとつでも押し寄せれば、汚れは沖に吐き出されるのですが、元の美しい海とはいえません。

わたしは豆腐作りのニガリ用として採りに来たのですが、もっと深刻なのは、神さまのお祓いをする際に欠かせないシオバナです。笹を束ねたのをハナといいますが、そのハナに神聖な潮水を振りかけたものをシオバナといいます。以前はシオクンバマ(潮汲み浜)があって、そこで潮を汲んでいましたが、いまはどこの潮も汚れているのです。一番手強い汚し手は、アラブから原油を運んで来るタンカーです。荷を国内の原油基地で降ろし、再び中東に向かうのですが、その途次、海水を使って船倉を掃除します。ここの沖でその作業をするので、原油の黒い塊が海岸線を覆うことも稀ではありません。他の地域では抗議を受けても、トカラなら文句が出ないだろうと、高をくくっているからでしょうか。

浮遊するゴミを手で避けながら、一升ビンに海水を採り入れました。一・五キロメートルの道のりを部落に戻り、カマヤ(釜屋)へ潮を持っていくと、マサエバアが六角の木箱の前にドカッと腰を落としていました。箱の真ん中に据えられた臼の脇腹に、丸い穴が穿たれています。それに木の棒が差されていて、バアはそれを右手で握って、ゆっくり左回転させるのです。柔らかく茹でられた豆の汁が臼の周囲から滴りこぼれました。箱の手前の開口部から白い汁が土間に置かれたバケツに流れ落ちていきます。

何升の豆を挽くのか分かりませんが、三十人、四十人分の豆腐を作るのですから、石臼挽きも大仕事です。バアが額に汗をにじませながら挽き終わると、べつのバアがその汁を木綿の晒しで濾しにかかりました。力を入れて上からのしかかるようにして濾すのですから、これも力仕事です。三人目のバアが大釜の前に構えています。すでに、焚きものは赤々と燃え始めていました。

「ナオ! 早ようせんか!」

手際よい職人技に見とれていたわたしは、ボーっと突っ立っていたのでしょうか、バアにせかされて、急いでビンを渡しました。濾された汁がバケツから鍋に移されていきます。三人目のバアが、ビンからニガリを釜に注ぎました。片方の手には竹の棒が握られていて、汁をゆっくりかき回していました。焦げないように気をつけているようです。声の荒さとは無縁に、その横顔にはゆとりすらありました。かたまり具合を見ながら、微妙な火加減をとり、その合間を縫うようにしてわたしに声を掛けるのです。

「ワイはおかべ(豆腐)作りを初めて見っとか?」

「イニャ(否)。臥蛇の居っころ、秋子ネエが作りよった」

熟達したバアの両手からビンと棒とが離れ、こんどは柄杓に握り替えました。柔らかさが残っている煮汁を掬っては、おかべ箱に注ぐ作業に移っていました。深さが二十センチあるかないかで、三十センチほどの長四角の箱の口まで煮汁が入ると、今度は、中蓋を上から押しつけました。スが入らないようにするためなのでしょう。ふたつの箱に汁を採って作業は終わりました。

わたしは島を離れてながくなります。豆腐を口にする機会も多いのですが、大豆の甘さが咥内に広がるとき、思い出すのは島のことです。肌は白ではなく、灰白色です。また、手で握っても崩れないほど締まっています。見てくれの良さでは劣るかもしれませんが、いつわりのない暮しが写し出されています。そんなことを考えていたら、ふと、石臼を前にデンと腰を落としているバアの後ろ姿が浮かんできました。

餅つき風景とうり二つだが、よく観察すると、蒸籠はないし、ついた餅を捏ねる人がいない。これは籾をついて脱穀している最中である。この作業のあと、松の芯で作った籾摺り機で摺る。わずか一升の籾を精米するにも、女三人が半時間は費やす。いずれの写真も大島洋氏の撮影になる 餅つき風景とうり二つだが、よく観察すると、蒸籠はないし、ついた餅を捏ねる人がいない。これは籾をついて脱穀している最中である。この作業のあと、松の芯で作った籾摺り機で摺る。わずか一升の籾を精米するにも、女三人が半時間は費やす。
いずれの写真も大島洋氏の撮影になる
稲垣尚友

大学中退後、外交官志望から一転島歩きが始まる。
トカラ列島のひとつ、鹿児島県十島村平島に数年を暮らす
熊本県人吉盆地で竹細工の修行の後、茨城県笠間で独立
1986年より千葉県鴨川市で半工半物書きを生業としている
トカラ塾主宰 http://user.ecc.u-tokyo.ac.jp/~c080007