倭の島のモノ語り / 稲垣尚友

総檜造りの流木校舎

政吉アニの家に立ち寄ると、アニは居間の床板を剥がしていました。

「何ごとなあ?」

「根太(ねだ)が腐ったごとあんで、取り替えんなあ・・・・・・」

アニはバールを握る手を休めて、床下に顔を向けたまま、わたしに応えてくれました。わたしはアニの目線に誘われるようにして、首を床下へ入れてみました。ひんやりとした風が吹き出してきて、頬をなでました。寸法の不ぞろいな根太材が半間の間隔で、平行に並んでいます。きっと古材を再利用したのでしょう。ここ平島(たいらじま)は山が浅いので、建築用材には不自由を強いられています。それで、一度解いた家でも、使える材は再利用します。

寸法の不ぞろいは、根太(ねだ)の下に直角に据えてある大床(おおどこ)の材に刻みを入れることで調整をしています。根太材が何であるか分かりませんでしたが、床材は桑でした。アニは根太から目を離さず、

「臥蛇からやっど」

と、口数の少ないアニらしいもの言いをしました。北隣の臥蛇島(がじゃじま)から運ばれてきた材であることをわたしに伝えたかったのです。臥蛇島の山は深く、標高も五百メートル近くあり、材木には恵まれています。平島の最高峰はその半分の二百五十メートルです。面積となると、四分の一しかありません。また、臥蛇島の山には桑とか槙(まき)という、この近隣の島々で珍重されている材が豊富です。

桑は材質の硬い木で、掘っ立て小屋を作るときには欠かせません。土台石の上に柱を立てるのではなくて、地中に柱を埋める工法です。これだと、台風銀座の島にあっても、強風で家が吹き飛ばされることがありません。この工法では柱材は桑を使います。どの材を使おうと、土に含まれる水分で材は腐敗をまぬがれないのですが、桑は腐りにくいのです。

わたしは平島に移り住む前には臥蛇島にいたのですが、昭和四十三年の秋に大型台風に見舞われて、一軒の茅屋根が吹き飛ばされたことがありました。そのとき、風速がどのくらいあったかは、さだかではありませんが、台地の上に建つ灯台の風速計は七十メートルまでを計測して、あとは、計器自体が飛ばされてしまいました。そのとき壊れた家の解体を手伝ったのですが、昭和の初めに埋められたという桑の柱がみごとに生きていました。そのときすでに四十余年を経ていました。それほど水気に強いのです。松材はそれ以上の耐用年数があるのですが、潤沢には手に入りません。

もう一方の槇材ですが、これはシロアリが悪さをしないのです。南の暖かい地域ではこの虫の害に泣かされるのですが、不思議なことに、槇だけはかじろうとしません。それで、一時期は、臥蛇島の槇が沖縄に出荷されていました。

そんな臥蛇島の材を再利用しているアニの口から、思ってもみない人の名前が飛び出してきました。

「こん(この)家の細工(さいく)は萩原て言う人やった」

と、ポツリと洩らすのでした。大工仕事のことを「細工」というのです。わたしは目を丸くして、

「ええっ! そうな?」

と返しました。なんと、臥蛇島の学校を建てたときの棟梁の名前が、この家の棟梁だなどとは思ってもみませんでした。それは、それは、夢のような話につながっていくのです。

時代がさかのぼりますが、一八九五年に日本は台湾を自国の領土に編入しました。数々の占領政策のひとつとして、現地の資源を大量に日本内地に運んでいます。台湾檜や米もそうした品目のひとつです。定期航路も開設されていて、それらの船はトカラ諸島の沖を通過していました。東シナ海は深海でもあり、船が岩礁に乗り上げる危険性は少ないように思えるのですが、現実は逆でした。昭和十三年には、三千トン級の貨客船が臥蛇島のスンジャ浜に乗り上げてしまいました。事故の原因は濃霧に巻かれたからとも、あるいは、一等航海士の居眠り運転ともいわれています。

その船は大阪商船の恒春(こうしゅん)丸というのですが、島の人たちは「コーシン丸」と呼び習わしていました。その船は多くの客を乗せていたので、何とか自力で離礁しようとして、積んでいた荷を海上投棄したのです。鋼鉄や何百本ともしれない檜や、それと大量の米俵です。

島民にとってこんなありがたい投棄物はありません。連日、丸木舟を沖に漕ぎ出して、拾い集めました。米は一度海水に浸かると味が落ちるばかりか、芽が出てきて、食料になりません。何とかして、濡れないまま、手渡しで貰えないだろうかと、船員と交渉したのですが、「そうしてあげたいのだが、投棄として認められないと、保険金がおりないから」ということでした。島民は濡れた米を持ち帰り、天日干しするしかありませんでした。

もっとも嬉しかったのは、大量の檜材を入手したことです。海面に敷きつめたように浮かぶ台湾檜を丸木舟でハマに運ぶのですが、何日もかかりました。その一本ずつを担いで部落まで運び上げました。後刻、それを大鋸で挽き、角材に製材したのです。そして、永年の夢であった学校を建てることにしました。

現在では想像するのも難しいことなのですが、当時は文字が読み書きできるということは、神業にも近いことと思われていました。それで、旧暦の四月八日のお釈迦様の日には、大根でも芋でもいいから、お釈迦様の像を彫り、それを桶に立てて、上から水を掛けるのです。掛けながら、「どうか、目が開きますように」と祈ります。「目が開く」ということは、「開眼」にも通じるコトバですが、文字を通して世界が開けることだったのです。それゆえに、わが子に文字を教えてくれる先生は後光の差すありがたい存在でした。

自分たちの家を建てることは苦もないことですが、高い天井と広い間口の建物は手がけたことがありません。製材は部落総出の共同作業で行えばこと足りるのですが、どうしても、棟梁をひとりどこからか招かなければなりません。それで費用の捻出のために、皆はわずかな収入から拠金をして、貯金を始めました。

そのときに白羽の矢が立てられたのが、萩原源之助大工でした。東隣りの中之島に住む名うての大工です。萩原姓は在来島民のものではないのですから、どこからか渡ってきた人に違いありません。

島民総出の作業が何ヶ月も続きました。棟梁の指示の下に皆が心をひとつにしたのです。出働できる男たちの内で、魚捕りの上手な者が二人か三人、沖に派遣されました。女たちは総代の家のカマヤに朝から駆けつけて炊きだしに精を出したのです。何人かは山に入ってアザミの根を掘ったり、ヤマイモを採ったりしました。米の不足している時でしたから、芋も畑から持って帰りました。三度の食事だけではありません。「チョウナ立て」という名で呼ばれている起工式には宴の準備もあります。餅を搗いたり、豆腐を作るのも女たちの仕事です。

そうしたおとなたちの動きを子どもらは見ています。「潮を汲んで来んか!」と言いつけられると、きゃーきゃーと大騒ぎをしながら、海岸に走って下りて行きます。瓶に入れられた海水がテゴ(背負いカゴ)に入れられてカマヤに届けられると、女たちはそれを大鍋に流し込んで大豆汁を凝固させます。海水はにがりとして、豆腐つくりには欠かせません。

総檜造りの学校が完成したのが、太平洋戦争が終わる前年でした。間口六間半、奥行き四間の見事な校舎ができました。これは、他の大きな島にもないほどのものです。後に瓦葺きとなりますが、完成時は茅葺きでした。その細工の確かさに改めて舌を巻いたのが、その七年後でした。ルース台風という暴れ低気圧が島々を襲ったときです。このときの強風と高波のために、中之島の船倉部落は壊滅したほどです。臥蛇島の学校も飛ばされました。総檜の建物がそっくり、数十センチ飛ばされて着地したのです。ちょうど、箱がそのまま移動したように、何の損壊もなく着地しました。細部にわたる手抜きのない木組みが、強風にも押し潰されなかったのです。台風一過、皆で土台を据えかえただけで、校舎を元の姿に戻すことができました。

政吉アニの家の根太をよく見ると、ノミ痕が確かめられました。すでに他界して何十年にもなる萩原棟梁の手形でした。無人島になって久しい臥蛇島のことが想われました。

稲垣尚友

大学中退後、外交官志望から一転島歩きが始まる。
トカラ列島のひとつ、鹿児島県十島村平島に数年を暮らす
熊本県人吉盆地で竹細工の修行の後、茨城県笠間で独立
1986年より千葉県鴨川市で半工半物書きを生業としている
トカラ塾主宰 http://user.ecc.u-tokyo.ac.jp/~c080007