倭の島のモノ語り / 稲垣尚友

女衆(おなごんし)のテゴ作り

わたしは、ある日の朝、女たちが一団となって琉球寒山竹の生い茂るヤマに入っていくのを目撃しました。食事の後片付けもそこそこに、弁当と鎌とをテゴ(背負いカゴ)に入れると、誘い合って出かけたのです。わずか五人かそこらの一団ですが、それはそれは賑やかなものでした。まるで子どもが遠足にでかけるときのはしゃぎぶりなのですから。わたしが止宿していた宿の主人が、半分あきれ顔で見送っていました。

「まこと、シンケイのごとして・・・・・・これで五日目やろう」
と誰に言うでもない溜め息を吐くのです。でも、口元では笑みを噛み殺しているようにも受け取れました。「気でも狂ったかのようになって・・・・・・」と言うのです。

臥蛇(がじゃ)島は人口の流出が激しく、女たちが連れだって出かけるといっても、元気に働ける者は五人か六人しかいませんでした。戸数は十前後あるのですが、その中には独居老人もいれば、分校の先生も計算に入れていたからです。

女たちは、夕方、暗くなる前に帰宅するのですが、決まって何個かのテゴを持ち帰りました。まだ青みが残っているテゴが勝手口から家の中に放りこまれると、新鮮な青竹の臭いが座敷の中に広がります。いままで編んだのを合わせると、十個近くが転がっています。連れ合いは茶化さずにはいられません。

「どしこ(どれくらい)編めば気が済むとか?」
主人の問いかけに、カミサンは陽性な笑いを返すだけで、夕飯の支度にかかるのが常でした。女たちが仕事に出かけると行っても、ヤマで弁当を広げ、お喋りを絶やさずに一日を過ごすのですから、どこか、ピクニックにでも出かける気楽さがあるようです。

そんなテゴ編みが始まるのは、九月に入ってからです。南の島の暑さはまだまだ続くのですが、地下の世界はひとシーズン先をいっています。晩秋を迎え、植物の生育は休眠状態に入るのです。竹は地下から養分を吸い上げる力を失い、大げさな言い方をすれば、立ち枯れ状態になるわけです。養分が少なくなるので、九月以降に切った竹には、虫が付きにくいということを皆が知っています。伐りどきを間違えれば、米に付くコクゾウ虫とそっくりなのが、どこからか飛んできて、ガサガサと歯を鳴らしながら竹を食べてしまいます。せっかく編んだカゴやザルはボロボロに崩れてしまうのです。ただ、南の島の年間平均気温は高いので、どんなに注意しても、虫食いが皆無ということはありません。

竹はイネ科植物なのです。赤い実を結ぶのですが、島ではジネゴと呼んでいて、食糧にしました。これだけでは粘りけがないので、サツマイモと一緒に炊くのです。結実は何十年かに一度なのですが、そのときは、決まって野ネズミが大量発生します。全山が食料庫となるのですから、ネズミは大喜びです。ついでに畑の作物も荒らし回り、芋の一本も残らず食べることもありました。つっかえ棒をほどこした戸板の下に餌を撒いておき、棒を払いのけると、板の下敷きとなったネズミが何十匹も捕獲できたというのですから、たまりません。人家にも近づいて悪さをします。臥蛇島では乳飲み子を抱えた母親が、就寝中にネズミにかじられて、それが元で落命したことがあります。乳の臭いがネズミを誘ったのでした。昭和の初めのできごとです。

たまりかねた人間さまが、猫イラズをここそこに仕掛けたのですが、効き目がありません。村役場も大騒ぎして、天敵のイタチを、ひとツガイずつ島々に配布しました。そのときの村長は田中上安と言って、イタチ導入で名を上げました。ここで村というのは、単一の島のことではありません。トカラ諸島と呼ばれている島々がひとまとめに束ねられて、十島村(としまむら)という行政単位が作られているのです。

が、そのイタチも、猫イラズを食べてコロコロと死んでしまいました。平島だけが猫イラズを撤去したので、繁殖したのです。臥蛇島ではそのニュースを聞きつけて、青年団が丸木舟に帆を掛けて、南隣の平島へイタチを貰いに出かけました。そのお礼には、島特産の桑の材木や焼酎を持参しました。それほどありがたいイタチでした。

話をテゴ作りに戻しますと、女たちはいろいろの作品を編み出します。小ぶりの背負いカゴのことをシタミテゴ(下見テゴ)と言うのですが、小さい品物を運ぶ場合には都合がいいのです。子どもでも背負えます。家の仕事を手伝って、牛の飼料にする草を刈ってはシタミテゴで運んでいる子どもを見かけます。また、学校の遠足には欠かせません。この中へ弁当や水筒を入れて山道を遠くまで行くのです。いわば、島のリュックサックなのです。

台所やカマゴヤ(竈小屋)と呼ばれている納屋には変化に富んだショウケ(ザル)や、ザル類が並んでいます。米揚げショウケや、バラと呼ばれる、丸くて浅底のショウケも自分たちで作ります。鹿児島市内に出たときに商店で買ってくる人もいるのですが、島に自生している琉球寒山竹で作ったショウケの方が使い勝手がいいようです。見てくれは劣るかもしれませんが、丈夫さでは勝っています。手の込んだ細工物もあります。男どもが磯釣りに出かけるときに、腰に提げる餌入れのカゴをアマミサシと言いますが、蓋付きのみごとな作りです。

これらの日常品は、作ることはしますが、シンケイなるような熱の入れ方はしません。シンケイになるのは、大ぶりのテゴに限られています。

定期船の下り便がやってくると分かると、女たちは船にテゴを持っていって、船員に頼んで島々に送るのです。主な送り先は、次の寄港地である平島と一番南に位置している宝島とです。宝島に送るのは、黒糖と交換するためです。この島は諸島内では一番温暖で、糖度の高いサトウキビが栽培できるので、良質の黒糖が生産されています。村外に出荷するほどの生産高がないので、諸島内で消費されています。また、南隣の平島へは親しみからです。婚姻関係も多く、相互に訪問する機会も多いのです。その親しみから生まれた贈り物が、何かの品物に換わることも分かっています。

船は宝島を折り返すと、上り便になります。テゴを送った三日後に臥蛇島にやってきました。島には定期船が接岸できる港がないので、男たちが小舟を沖に通わすのです。ハシケと呼ばれているその舟は、いくつかの段ボール箱に詰めた荷を積んで沖から船着き場に戻って来ました。わたしもそのひとつをテゴに入れて部落に帰りました。

崖に刻まれた百の石段を上ると、平坦地に出ます。そこに集落が開かれています。家と家に挟まれた竹藪の隙間から、崩れかかった石垣が覗いていました。そこには以前、屋敷地が開かれていたことを物語っています。昭和の初めのころまでは、カツオ漁が盛んで、諸島内では一番の豊かな島でした。多いときには百数十人いたことが、後の語り草になっています。年寄たちが語るには、若い男女であふれていたそうです。きっと、日々が祭りの賑わいのなかにあったことでしょう。藪になる前の、手入れの行き届いた屋敷地が、わたしの脳裏をかすめました。

わたしは荷をひとりの姉(ネエ)に届けました。平島から送られてきた荷です。ネエはその場で荷を解き、嬉しそうに独りごちたのです。

「平島(てらんしま)も良か米の獲れたもんじゃ(獲れたことだこと)」

米が詰まった箱の隅にカッサ餅が数個、押しこんでありました。テゴのお礼の品々です。カッサの葉の香ばしさが一面に広がっていきました。

南隣の平島は周囲が四キロしかなく、元気な若者は、素潜りで魚を突きながら島を一周してしまいます。広さは臥蛇島の半分もないのですが、田だけでも十四町歩あります。水持ちの良い土壌に恵まれていて、全島が水田であるといっても過言ではありません。「平の銀飯」と呼ばれるほど、近隣の島々では珍重される米が採れます。一方の臥蛇島は、「裸足で歩ける」と他島の人にひやかされるほど、水はけの良い砂地です。足裏に汚れがつかないのです。

水分が多く、土壌の肥えている平島は竹の生育も良いのです。臥蛇島はその逆ということになります。生育が早いということは、竹の繊維質が荒く、粘りに欠けることになります。簡単に言うと、折れやすいのです。反対の条件が揃っている臥蛇島のテゴがもてはやされるわけがここにあります。また、平島では男も女もテゴ編みができるのですが、臥蛇島で男が編んでいるのを一度も見たことがありません。テゴ作りは女の仕事というわけです。

臥蛇島は人口が激減したのですが、竹にあおられた女たちの「シンケイ」ぶりは、往時のままではないのでしょうか。それが確かな暮らしを支えているのです。ネエはこうも独りごちていました。

「盆のミヤジンジョの踊りが想わるっとなあ・・・・・・」

旧暦七月十五日の平島の盆ではどの家もカッサ餅をたくさん作ります。そして、踊りの当日に集まって人たちに振る舞われます。子どもたちにはひときわ待たれている食べ物です。餅米を石臼で挽いて、それに黒糖を混ぜて団子にして、カッサの葉でくるみます。それを蒸すのです。平島を訪ねたことのあるネエには、銀飯とカッサ餅とは忘れられない思い出だったのでしょう。そのことを知っている平島の縁者が、盆とは関係なく、テゴのお礼にカッサ餅を作って贈ってくれたのでした。

その後、臥蛇島は無人の島となりました。琉球寒山竹が我がもの顔で全島を覆っていることでしょう。いま、関東の地で竹細工を生業としているわたしは、竹の切り時が良くなる九月になると、臥蛇島の女たちのシンケイぶりを思い出すのです。

写真家の大島洋氏がひとりの島民の持っているアルバムの中から複写した一枚です。兄弟の家族が力を合わせて、壁竹を制作した日の休憩風景です。この竹は琉球寒山竹で、四等分に割り、長さも揃えてあります。おそらくは島外に出荷するために、きれいに束ねたのでしょう。この竹はトカラの島々に自生しています。あまり太くはなりません。写真の中に何個かのテゴ(背負いカゴ)が写っていますが、これも同じ竹で編まれています。
これも大島氏がアルバムから複写した一枚です。昭和三十九年ではないかと推測します。現場は平島(たいらじま)のヒガシの浜です。そこで定期船の入港を待っている人たちです。皆がみな、テゴを背負ってやって来ました。集落は二百メートルの峠越えた向こう側にひらけているので、荷を運ぶのにはテゴが欠かせません。写真に写っているテゴの中で、はたしてどれが臥蛇島からの贈り物なのか、手にとって見ると分かるのですが、写真では判別が難しいようです。
稲垣尚友

大学中退後、外交官志望から一転島歩きが始まる。
トカラ列島のひとつ、鹿児島県十島村平島に数年を暮らす
熊本県人吉盆地で竹細工の修行の後、茨城県笠間で独立
1986年より千葉県鴨川市で半工半物書きを生業としている
トカラ塾主宰 http://user.ecc.u-tokyo.ac.jp/~c080007