倭の島のモノ語り / 稲垣尚友

ピーピーどんぶり

わたしは、トカラ諸島の中ほどに浮かぶ臥蛇(がじゃ)島でしばらく暮らしたことがあります。その島が無人島になる2年前でしたから、昭和43年(1968年)のことになります。

ある日、島の最長老である伊勢熊ジイ(明治27年生まれの74才)が飼育していた牛が死んでしまいました。島々では肉牛の生産が始まったばかりでしたが、臥蛇島は他島よりも一戸あたりの飼育頭数が倍ありました。十頭前後が平均でしたが、ジイはただの一頭だけでした。そのかけがえのない牛を失ってしまったのです。原因ははっきりしません。ダニの駆除が行き届かなかったためなのか、あるいは、はやり病が島外からもたらされたのか、誰にも判断がつきませんでした。

皆は、ジイが気落ちしているのではないかと心配して、慰めのコトバをかけようと、ジイの家に集まって来ました。が、ジイは少しも沈んではいなかったのです。

「こいで(これで)命を拾ったがよ」

笑顔こそなかったのですが、背筋を伸ばしたもの言いに、皆は拍子抜けしてしまいました。牛がハンドウの代役をしてくれたことを喜んでいたのです。

ハンドウとは、丈が一メートル近くあり、胴長の焼き物です。水に不自由している島でしたから、これに天水を溜めて用水としていました。集落の近くには湧き水がないうえに、どこを掘っても水が湧いてくるような水脈がありません。砂地なので、雨水は地底深く染みこんでしまい、田んぼの一枚もできない島なのです。

用水を確保するために、屋敷の周囲に植えてある、防風林代わりのガズモリ(榕樹)の幹に縄を巻きつけ、それを伝わってしたたり落ちる天水をハンドウに導いて溜めるのです。それがため、現金収入が限られていた島でしたが、他の出費を犠牲にしてでも、ハンドウを手に入れたものです。

ジイはここ何年か体調がすぐれずに、鹿児島の病院に入ったり出たりをくり返していました。島では大病すると、ハンドウを打ち割る風習があります。本土から買い求めた貴重な財産をないものにすることで、より大切な人の命を拾うことができると、皆は信じていました。大切さには代わりのない牛がハンドウ役を替わってくれた、とジイは確信したのです。

島では簡易給水パイプが敷設されてからはハンドウを使わなくなりましたが、わたしが島にいた頃は、ここそこの庭先に転がっていました。それは内地のどこかで作られたものです。いま、わたしの記憶はおぼろげになっているのですが、釉薬が草餅色をしていたように思います。

その他の、島で使う焼き物のほとんどは鹿児島の苗代焼きでしたから、あのハンドウも同じ釜場の出ではなかったでしょうか。焼酎を入れる壺にしろ、カラカラと呼ばれる、急須を扁平にした形の焼酎さしにしろ、草餅色をした釉薬がかかっていました。県北の伊集院に窯場があるのですが、これは豊臣秀吉が半島から陶工を拉致してきて焼かせたのが始まりです。島津藩では、苗代で焼いたものを『南蛮焼き』と称して、長崎に移出して稼いでいました。

陶工たちは窯場に閉じこめられていて、外との交流を許されませんでした。朝鮮半島風の暮らしを強いられ、墓も域内から外には作らせてもらえません。わたしはだいぶ前に一度だけ訪ねたことがあるのでしたが、村のはずれに建っていた墓石が、石ノミで苗字を削り取られているのを目撃しました。半島の姓がひと文字であることが差別につながり、それをかわそうとしての作為です。

話を戻しますと、臥蛇島といわず、トカラの島々では焼き物を作る技術が発達しませんでした。早くから島外の優秀な焼き物が入ってきたからです。すでに縄文期の遺跡からも島外品が出土しています。その後になっても事情は変わりません。古くは奄美大島の徳之島から、近世に入ってからはそれよりも南の沖縄の壺屋から、そして、北からは苗代からもたらされました。交易圏が次第に拡大していったあとがうかがわれます。

わたしが島にいた頃は、壺屋焼きの壺は船便に積みこまれる荷物の容器としても使われていました。元来は泡盛を入れるための容器ですが、瓶詰めが普及してからは、穀類入れに転用されていました。素焼き状であったので、その脆さを補うために、六角目に編んだ竹で全体をカバーするのです。その竹は琉球寒山竹という名の、柔らかい繊維質の竹です。壺屋焼きはどれも淡い朱色でした。臥蛇島ではこの二種類の焼き物しか目にしたことがありませんでした。

臥蛇島の南隣の平島(たいらじま)の焼き物事情は違っていました。焼成技術が未発達であることには代わりがないのですが、品物の入手方法が想像を超えていたのです。

わたしが平島に始めて渡ったのは、昭和42年の2月でしたが、そのときに日高栄熊というジイから難破船救助の話を聞いたことがあります。その時、ジイは数え年の85才になっていたのですが、72年前に起きた事件の顛末をきのうのことのように覚えていました。現在から計算すると、115年前の出来事となります。

―― オイドンは良う覚えちょる。日清戦争が終った年(明治28年・1895年)やったでなあ。旧暦の三月やった。オイドンなあ、数え年で13才になっとった。まだ、小青年にもならん歳やったが、親の言いつけで、暗いうちに起きて、スバタケに走ったとよ。スバタケちゃあ、潮見所(しおみどころ)やろう。そん頃は、否(いんにゃ)、それからこっち、近ごろまでも、起きて一番の仕事は沖の潮を見ることやった。「きょうはどこどこの潮」ていうふうに、その日によって、沖の潮の流れが違うとるからなあ。その潮を見きらんうちは漁には出られんとよ。

その日はアカセの潮やった。悪石島から平島さめ(平島へ)潮が寄せて来るが、その潮がアカセのハマに寄せとる。日によって、アカセがマエノハマになったり、クエンサキになったりで、違ごうちょったもんじゃ。

オイドンが潮を見とれば、そのアカセのはるか沖はゴンゾネやもんなあ。このソネはカツオの巣よ。凪が続けば、枕崎の船が日を開けずに寄って来て、大漁しよった。ここ(平島)からやれば、風が良かれば、丸木舟で三時間余りで行きがなる(行ける)となあ。そのソネの方角によ、目をやれば、何や分からんが、船が一艘浮かんどる。カツオ船にしては作りが違ごうちょったろう。また、太く(大きく)もあった。早ように家さめ帰って、親に潮を知らせんな、と思うバッテン、その船に気を取られて、帰りがならんた。良うと見とれば、船が同じところをグリグリ回っとる。

帰ってから親にそのことを知らせたならば、「ワイは、ただいま(今すぐ)二才頭(にさいがしら・青年団長)の元へ知らせてこんか!」て言われて・・・・・・男どもがすぐにスバタケに走って行って、ゴンゾネの方を見やる。そのころ、オイドンのジイが総代をしよったが、そのジイが判断がつかんふうで、皆に言うた。

「どうも、流れ船のごとある。あたりまえの走り方じゃあ無か。いっとき、様子を見らんなあ」

・・・・・・何どきやったかなあ、陽がまだ高かったで、今の時間で言えば、四時、五時のころやなかったかて思うが、ジイが、「あれは流れ船じゃ」て。そいからが(それからが)ううそうどう(大騒動)よ。ほら貝が吹かれて、二才衆は褌を締めてハマに下りて行った。救助に出るていうことで、女どもは握り飯を作って男どもを追いかけるで。

ゴンゾネに着いたころは暗くなっとるから、方角が取れん。ヘエケガクボ(平家が窪)ていう山の上で狼煙をあげて、島の位置を舟に知らせんといかんから、そこに登る者は登って仕事をしよった ――

淡々と語るジイでしたが、てんやわんやの光景が聞いているわたしにも伝わってきました。流れ船は丸木舟の何倍も大きい船でした。二才衆が飛び移ってみると、不気味な静けさがあり、人影が見あたりません。三本マストの帆船でしたが、帆柱は折れ、帆布は吹き飛ばされていました。帆柱の根元から猫が一匹飛び出してきたとには、肝をつぶしたそうですが、少し救われた気持にもなったようです。

船の作りや、船腹に書かれた文字から判断して、支那の船のようでした。男たちは無人の船をミナトに曳航すべく艪を押したのですが、あいにくと逆潮に遭って、なかなか進みません。屈強な若者たちが夜を徹して四丁の艪を押すのですが、かないません。ようやくのことで、島裏の入り江に漕ぎ入れることができました。潮流を測りながら、船着き場に回航したのは陽が高く昇ってからでした。

今度は別の二才衆を乗りこませて、北東隣りに浮かぶ中之島へ丸木舟を走らせなければなりません。同島にある戸長役場に届けなければならないからです。さっそく、戸長がやって来ました。四時間かけての帆走でした。搭載品を調べたら、焼き物や服類が出てきました。戸長はそれらの品々を選り分け、奄美大島にある大島支庁に運ぶつもりでした。その地で入札にかけ、戸長役場の資金にするためです。残りの品は平島島民の処分にまかされました。

平島の本家筋の24戸が大量の遺留品を等分に分けたのです。いま祝いの席で使われる小鉢がありますが、それらは「ピーピーどんぶり」と呼ばれています。指の腹を鉢の縁に押し当てて、その指をゆっくり回すと、ピーピーという共鳴音が鳴り出すのです。音のでる焼き物は手にするのは始めてのことでした。しだいに「平のピーピーどんぶり」の名は島々に知れ渡り、現物も流れ出しました。

壺屋と苗代の焼き物に囲まれている中で、ひときわ精彩を放っているのがピーピーどんぶりです。藍色をした小どんぶりですが、渋い色調のその鉢は、他を圧した風格があります。物品の伝播は島づたいかと思っていたのですが、平島は大陸と直接に繋がっていたのです。

平島の旧船着き場での舟の上げ下ろし作業。写真家の大島洋氏がひとりの島民のアルバムから複写したもの。年月がはっきりしないが、作業中の男の年格好から推測すると、昭和30年代の終わり頃であろうか。半トンのこの舟は琴平丸と名付けられていて、沖掛かりする定期船にミナト(船着き場)から通うためのハシケ舟である。港が整備される以前は、波止場と本船との間を往復して、人や荷を運ぶハシケと呼ばれる小舟を用いた。
昭和39年の平島、ヒガシのハマでの荷揚げ風景。1枚目に出てくる船着き場はマエノハマにあり、いわば本港である。このヒガシハマには、港湾施設はいっさいなく、本港の波が高くてハシケを沖にだせないときに、このハマの沖に定期船が回航してきた。ハマから丸木舟を漕ぎ出して、沖の本船に向かうことになる。部落からヒガシへは200メートルの峠を越えて山道を通うことになる。屈強な男の脚でも小一時間かかる。写真の荷も人の肩に担がれて、部落まで運ばれる。この写真も大島氏がアルバムから複写したもの。
稲垣尚友

大学中退後、外交官志望から一転島歩きが始まる。
トカラ列島のひとつ、鹿児島県十島村平島に数年を暮らす
熊本県人吉盆地で竹細工の修行の後、茨城県笠間で独立
1986年より千葉県鴨川市で半工半物書きを生業としている
トカラ塾主宰 http://user.ecc.u-tokyo.ac.jp/~c080007