倭の島のモノ語り / 稲垣尚友

オオババと芭蕉布

初めまして。わたしは以前に小さな島に住んでいました。その島で見聞した、もの作りに関する話や暮らしぶりを、これから先、何回かに分けてご紹介したいと思います。

その島とは、鹿児島県下の十島村(としまむら)の中にあります。俗に言うトカラ諸島のひとつで、名前を平島(たいらじま)といいます。2009年7月の皆既日食の観測地点として有名になった、悪石(あくせき)島の北にあります。鹿児島市から船で300キロメートル弱ほど南に行った、東シナ海のど真ん中に浮かぶ島です。種子島や屋久島の南にあり、奄美大島の北になります。周囲が4キロメートルで、人口は、多いときで200人、少ないときで70人台です。わたしが住んでいたのは、昭和40年台から50年台にかけてですが、100人前後でした。この中には、赤子も、年寄りも、学校の先生も含まれています。

あれは暑い日でした。といっても、まだ稲の穂が青みを帯びていた梅雨の最中です。梅雨とは名ばかりの日照続きでした。地は焼け、植物の葉は気の毒なほど生気を失っていました。この暑さを島では「ほめく」というコトバで表します。漢字を当てると、「火めく」となるでしょう。焼き殺されるような暑さです。気温がどのくらいまで上がっているのか、測ったわけではないのですが、家の中でも40度以上にはなっていたでしょう。わたしは茅葺き屋根の下で体を横たえていました。吹き出る汗を拭き取ろうともせず、ジッとしていました。床が網代編みになった竹で張られていて、肌にヒヤッとした感触が心地よいのです。

何時のころだったでしょうか、ウトウトしかけた中で、白いモノが瞼に映ったような気がしたのです。気だるい視線を外に向けると、ホントに白いモノが動いていました。カブラのオオバア(日高ヨネマツ)の神装束姿でした。このバアは明治30年前後の生まれですから、昭和50年であれば、83歳前後という計算になります。

芭蕉布をガウンのようにはおって、裾は風になびかせるに任せたままでした。帯のようなものは巻いていません。芭蕉布の下はどんな衣装であったのか、後ろ姿からは確かめることはできませんでしたが、おそらくは普段着のままでしょう。祭事を司るときの神装束は羽織姿ですが、芭蕉布は略式の衣装ということになります。そのかっこうで、今では廃道になっている家の裏の道を、裸足のまま学校の方角に上っていくのでした。手にはシオバナを握り、それを左右に振っていました。ちょうど、神主が御幣を振るようにして、道を浄めながら先に進んで行くのです。

シオバナとは、手折った笹枝に潮を、つまり、海水を付けたものです。女神役であるネーシには欠かせない小道具です。集落は100メートル余の段丘の上に拓けているので、シオバナを作るためには、絶壁まがいの山道を上り下りしなければなりません。バアはこのホメキの中を海岸まで降りたのでしょうか。あるいは、誰か若い人に頼んで潮を汲んできてもらったのでしょうか。聞いてみないとわからないことですが、そんなことが頭の中を巡りだすと、鈍った感覚のわたしは、シャキッとせざるをえませんでした。

カブラという名前もここで説明しておきましょう。これは屋敷の名前で、日高本家です。平島には元来日高姓しかなかったので、島のおおもととも言える家です。また、カブラの女たちはここ三代続けてネーシ職を引き継いでいます。ネーシは世襲職ではないのですが、カブラは「神さまが付く」家系なのでしょう。現役ネーシが3人いるのですが、その内のひとりがカブラの人です。年間を通しての祭事を司り、ときには流行病のお祓いや、水祈祷、虫祈祷なども引き受けます。雨乞いや害虫駆除の祈りのことです。

写真|大島 洋 写真|大島 洋

カブラの御大がこのオオババです。「大(オオ)小母(バア)」という意味です。「大婆」ではありません。年長の「小母さん」という意味です。オオババは愛称であると同時に、敬いの気持も含まれています。80を超えた年齢なので、現役のネーシではありませんが、並の人にはそなわっていない力がバアにあるからでしょう。

わたしの瞼には芭蕉布が白く映ったのですが、身近に見ると、黄ばんでいるような、灰白色のような、真っ白でない色です。これは汚れではありません。繊維本来の色です。バナナの葉に似た芭蕉の葉の繊維を取りだして、それを績んで糸にします。その糸で織るのですが、わたしは織る工程を見たことがありません。オオババが若い頃は織っていたようです。船も通わないころですから、生活のすべてを自給しなければなりませんでした。鍛冶仕事もしなければならないし、船大工も自分たちでするのです。当然、日常の着物も自前です。芭蕉布ばかりではなく、木綿布も織っていました。蚕から絹糸をつむいだこともあります。また、藍をたてて、糸を染めてもいました。島ならではの方法としては、サンゴ礁を海から採ってきて、それを焼いて藍染めに活用したそうです。そんな技術も、船が通い出した明治末以降は、あっという間に消えてしまいました。わたしが目にした芭蕉布はどれも無地でした。

オオババは水滴を左右に飛ばしながら、緩い上り道を行きました。きれいにくしけずったバアの白髪が肩から背中にかけて垂れています。束ねていないその髪が、シオバナを振るリズムに合わせて、左右に揺れていました。わたしは、見えない糸にたぐり寄せられるようにして、オオババの後を追いました。何と、パンツ一枚の姿です。履物も見あたらなかったので、裸足のままでした。あまり接近するのも、神さまには失礼なことかと思い、何10メートルかの隔たりをとりました。幅が2メートルもない廃道はゴミ捨て場の感がありました。木の枝が道に倒れこんだままになっていたり、劣化したビニール袋が草葉の下敷きになっているのです。一番怖かったのは、焼酎ビンの破片でした。裸足のオオババ踏まなければいいがと、後方から祈っていました。

ババは、学校の正門の前に建っているセクジョン(屋号)の屋敷の裏を通って、ヒガシへ抜ける山道に入って行きました。わたしは、距離を取るためにセクジョンの縁側でひと休みすることにしました。家の女主人がわたしの無粋な恰好を見て笑うのです。わたしは、ババがどこに行こうとしているのか、後を着けてきた、と言うと、笑顔が消えて、わたしに、「神さまに付いて行くもんじゃなかろう」と、強く諭すのでした。

ババはアカミズの水源地に向かったのです。ここから湧いている水は田に引かれているのですが、ここ何日かの日照で水涸れしたとのことでした。ババは水祈祷に向かったのです。ババは、普段は他の島民と同じように、米を作り、畑を耕し、魚を干したりしているのですが、芭蕉布一枚を羽織ることで、神さまへの使徒に身を変えることができたのです。

稲垣尚友

大学中退後、外交官志望から一転島歩きが始まる。
トカラ列島のひとつ、鹿児島県十島村平島に数年を暮らす
熊本県人吉盆地で竹細工の修行の後、茨城県笠間で独立
1986年より千葉県鴨川市で半工半物書きを生業としている
トカラ塾主宰 http://user.ecc.u-tokyo.ac.jp/~c080007