ハマスホイの部屋へ / 萬屋健司

アジア商会

人は一生のうちにいくつの町に住むのでしょうか。人生のなかで転機となる出来事、たとえば大学進学や就職、転勤、結婚等を機に、これまでとは違う町に移り住んだ経験をお持ちの方は多いのではないかと思います。自分がかつて暮らした町、そして今、自分がその一部である場所。周りを取り巻く環境から受ける影響には、人によってさまざまなものがありますが、気候や風土、歴史、そして文化に根差した「場所の記憶」とでも呼べそうなものは、そこで暮らす人々の心のうちに、静かに降り積もっていくのだと思います。

それでもやはり、自分がその一部になることが出来ない(と感じてしまう)場所もあって、コペンハーゲンはわたしにとってそんな場所の一つでした。出会ったデンマーク人はみんな親切でしたし、好きな研究に没頭することもできたのですが、コペンハーゲンが「自分の町」だという感覚は最後まで私には縁遠いものだったように思います。その理由はいろいろあって、国籍の問題だったり、言語の問題だったり、身分の問題だったりするわけですが、しかし、よくよく考えてみると、根本的にはわたし個人の問題のような気もします。多くの人たちがそうであるように、わたしもこれまでいくつかの町で暮らしてきました。そのなかで「自分の町」はどこだろうと考えてみると、どこも違うように感じられて、結局そんな場所はないように思えるのです。あるいは、それは単純にひとつの場所で過ごした時間の量的な問題なのかもしれません。それならば尚更のこと、ひとつの町で暮らし、そこで日々の生活を送る人たちに無思慮な羨望と憧れのようなものを感じてしまいます。ハマスホイに惹かれる理由の一つも、きっと彼がコペンハーゲンという街、そしてそこにある一本の通りと分かちがたく結びついているから、なのかもしれません。

ハマスホイが活動した19世紀末から20世紀にかけての時代、多くの画家が特定の場所と結びついた創作活動を展開しました。もっとも知られているのは、パリに集まったモネやルノワールをはじめとする印象派の画家たちでしょう。それまで絵画の主題になるとは考えられていなかった近代都市の生活を生き生きと鮮やかに描きだした彼らの作品は、パリという街なくしては成立しえないものでした。ほかにも、フランス北西部、ブルターニュ地方のポン・タヴェン村に集ったゴーギャンを中心とする画家たちや、アルルにユートピアを見たファン・ゴッホ、また生まれ故郷エクサン・プロヴァンスのサント・ヴィクトワール山を幾度となく描いたセザンヌなど、世紀末には多くの画家たちが特定の町や村に腰を据え、その場所に根差した作品を制作しています。そんな彼らの先達は、"農民の画家"として知られるミレーに代表される、19世紀半ばにパリの南およそ50キロに位置するバルビゾンの村で制作した画家たちでした。

フランス美術のこうした傾向は、世紀末のデンマークにも同様にみられます。デンマーク人の画家たちがはじめに集まったのは、ユトランド半島最北端の小さな村、スケーエンでした。19世紀後半、急速な都市化の進むコペンハーゲンではもはや失われてしまったと思われていたプリミティヴなデンマークの姿を求めて、画家たちはこの漁村を訪れました。そこで彼らは思いがけず、美しく長い夏の夜とスケーエン独特の光にすっかり魅了されてしまいます。そして1880年頃からは毎年夏になるとこの漁村に集い、当時最先端の芸術であった印象派の技法を取り入れた華やかな作品を制作しました。

1890年代後半になるとスケーエンに代わってフューン島、ついでボーンホルム島が前衛芸術家たちの集う場所となります。スケーエン派の画家たちが活躍していた時期にアカデミーで学んだハマスホイは、フューン派の画家たちと同じ世代でした。実際にハマスホイの師であるピーザ・スィヴェリーン・クロイア(Peder Severin Krøyer 1851-1909)はスケーエン派の代表的な画家ですし、またハマスホイはフューン派の画家フレツ・スュベア(Fritz Syberg 1862-1939)の作品を所有していました。しかし、ハマスホイがフューンに腰を据えて、その自然とそこで暮らす人々を描くことはありませんでした。スケーエンに至っては、彼が足を運んだ形跡すら見当たりません。ハマスホイが描く「デンマークの自然」は、スケーエンの真夏の夜でも、フューンのフィヨルドでもなく、コペンハーゲンの近郊か、そうでなければ妻・イーダが生まれ育ったファルスタ島のなだらかな、そしてどこか人の手が入っていることを感じさせる景色でした。

世紀末のデンマークで活動した多くの画家たちが、より"正統的"、"伝統的"なデンマークの姿を求めて辺境に赴いたのに対して、ハマスホイにはそうしたものに対する関心が全くなかったかのようです。そうした意味で、彼はデンマークというよりは、コペンハーゲンという街と結びついた画家であったといえます。そして同年代の多くの画家が憧れたパリをはじめとする外国の都市も、コペンハーゲン以上にハマスホイを惹きつけることはなかったようです。唯一の例外は晩年に繰り返し訪れたロンドンですが、それでもコペンハーゲンからロンドンに移り住むことなど、ハマスホイには考えもよらないことだったでしょう。

コペンハーゲンに生まれ、コペンハーゲンでこの世を去ったハマスホイ。その51年の生涯のなかで、彼がこの街を留守にしたのは、長くても半年ほどの旅行にでかける時だけでした。そんな彼が最も長く住んだのが、生家を除けば1898年から1909年まで暮らしたストランゲーゼ30番地のアパートです。その前に住んでいたのは、当時の新興住宅地に建つ新築のアパートでしたが、わずか1年で彼はそこから引っ越しています。また1909年にストランゲーゼ30番地を出た後に住んだニューハウン沿いのクヴェストフースゲーゼ(Kvæsthusgade)のアパートも翌年には引き払い、ブレズゲーゼ(Bredgade)に引っ越しました。当時、画材屋や画商などが軒を連ねていたブレズゲーゼは、今もアンティークの家具や骨董品を扱うお店が立ち並ぶ落ち着いた通りです。また、68番地に建つ工芸美術館(Kunstindustrimuseet)のある通りとしてご存じの方もいらっしゃるかと思います。このブレズゲーゼ25番地のアパートで描かれた作品には比較的クオリティの高いものが多く、現在、日本の美術館で唯一見ることができる国立西洋美術館所蔵の室内画もこのアパートで描かれた作品です。しかし、ブレズゲーゼのアパートも3年で引き払い、ハマスホイは再びストランゲーゼへ戻ってくることになります。

アジア商会 《アジア商会》
1900-01年
油彩・カンヴァス
158 x 166 cm
個人蔵
アジア商会周辺 2010年 撮影|筆者

ストランゲーゼ25番地に今も建つ旧アジア商会。ストランゲーゼから直角に伸びるサンクト・アネゲーゼ(Sankt Annæ Gade)の少し奥まった場所から眺めると、ちょうどこの作品のように、通りの両側の建物に挟まれて左右対称なアジア商会の建物が見られます。ハマスホイがこの作品を描いたのは、1900年から翌年にかけてのことでした。縦横それぞれ1.5メートル余りもあるこの絵は、比較的小ぶりなカンヴァスが多いハマスホイの作品群のなかで最も大きなものの一つです。

アジア商会の建物を描いた作品は現在までのところ、1899年に1点、1900-01年にこの作品とその習作(コペンハーゲン国立美術館所蔵)の2点、そして1907年に1点(個人蔵)の計4点の作品が知られています。1899年の作品は現在、行方不明ですが、過去の展覧会図録等の資料から、おそらくはコペンハーゲン国立美術館所蔵の作品と同様に、この作品の習作として制作されたと考えられます。2008年に国立西洋美術館で開催された回顧展にも出品された《アジア商会》は現在、オードロプゴー美術館に寄託されており、そこの常設展示で見ることができます。ハマスホイはこの作品を描いてからおよそ12年後、建物の向かって左側二階のアパートに移り住み、そしてそこが彼の終の住処となったのです。

西洋近代美術史において、ハマスホイほど一つの通りと強く結びついた画家はなかなか見当たりません。一度は離れなければならなかったストランゲーゼに対する執着とさえ呼べそうな彼の思い入れは極めて深く、25番地のアパートを借りる際、ハマスホイは実際に部屋を見る前に入居を決めてしまいます。

このアパートが空き家になっていることを知った時、ハマスホイはロンドンにいました。彼は義兄のピーダ・イルステズに手紙をしたため、部屋の状態を確認してもらいます。そしてその後すぐに自身に代わって仮契約をするよう、義兄に頼みました。無事に契約を取り交わした後、イーダからフレゼレゲに送られた手紙には、喜ぶハマスホイの様子が綴られています。少しだけ、イーダの手紙を見てみましょう。

「 ・・・それからお義母様、ヴィルヘルムはアジア商会のアパートを借りました。サインをした契約書はすでにあちらに送ってあります。彼は、それはもうほんとうに喜んでいます。家賃は高いのですけれど、絵を描くことができる場所に住めるのだからそれだけの価値はあると彼は言っています。とっても素敵なアパートですから、ヴィルヘルムは他の人の手に渡るのが嫌だったのでしょう。彼はあそこに住むことをずっと願っていましたけれど、4月に引っ越しをしたら、ついに私たちのものになるのです。」

(1912年11月30日付 イーダ(ロンドン)からフレゼレゲ(コペンハーゲン)への書簡より)

ハマスホイが心惹かれた場所、あるいは彼にとってのコペンハーゲンといってもいいかもしれませんが、それは街の最も古い地区でした。そのなかでも、ストランゲーゼが通るクレスチャンスハウン地区は17世紀に遡る歴史のある場所です。そしてその真ん中に位置する旧アジア商会の建物は、かつて海洋貿易で栄華を極めたコペンハーゲンの光と影の象徴だったのではないでしょうか。この作品に描かれたアジア商会のファサードは、ストランゲーゼ30番地のアパートから通りを隔ててわずか数十メートルの位置にあります。この作品は写真をもとに描かれたと思われますが、おそらく建物自体はアパートの窓から眺めることもできたでしょう。ナポレオン戦争以降、デンマークは小国へと転落してしまいましたが、通りの石畳に刻まれた華やかな時代の残響は、世紀末のストランゲーゼにも響いていたのかもしれません。

しかし、ハマスホイの作品からは、過去の栄光を懐かしんだり、あるいは現状を嘆いたり、はたまた未来へと情熱を燃やす画家の姿は感じられません。そこにあるのはむしろある種の諦観のように思えます。「場所の記憶」をありのままに受け入れ、そして自然にその一部となってゆく。決して能動的ではなく、だからといって受動的でもない。コペンハーゲンという街に"逆らわずに"そこにいる。だからこそ、ハマスホイは半世紀以上ものあいだコペンハーゲンに住み続け、この街を描き続けることができたように思えます。

ハマスホイが暮らしたストランゲーゼ。そこにハマスホイの芸術の核心に触れる何かがあるのだと、そう思って私はいく度もその場所を訪れました。しかし、通りを何度往復しても、また30番地と25番地のアパートの前にじっと立ってみても、ハマスホイを惹きつけたこの通りの魔力のようなものを感じることはできませんでした。あるいは、それは感性の問題なのかもしれません。それでも、21世紀のストランゲーゼはどことなく、なにかの抜け殻のような、虚ろなものにわたしには思えました。

ハマホイがストランゲーゼ25番地のアパートでこの世を去ってから、およそ一世紀。そのあいだにストランゲーゼを含むコペンハーゲンという街そのものが、大きく変わってしまいました。ハマスホイが心惹かれた「場所の記憶」もまた、この100年のあいだに降り積もった新しい「記憶」によって、消えてしまわないまでも、少なからずその姿を変えてしまったのでしょう。だとすれば、それはもはや彼の絵の中にしか存在しないのかもしれません。

萬屋健司

1979年 長崎県に生まれる
旧大阪外国語大学デンマーク語科を卒業後、大阪大学大学院にて西洋美術史を学ぶ
大学院在学中にコペンハーゲン大学に留学
ヴィルヘルム・ハマスホイを中心とする近代デンマーク美術を研究
2008年帰国。同年国立西洋美術館で開催された
「ヴィルヘルム・ハンマースホイ-静かなる詩情」展の図録の一部を執筆
現在、山口県立美術館学芸員