ハマスホイの部屋へ / 萬屋健司

ローマ、サント・ステファーノ・ロトンド聖堂の内部

「・・・羅馬(ローマ)は猶その古き諸神の像と共に、その無窮なる美術と共に、世界の民に崇められん。東よりも西よりも、又天寒き北よりも、美を敬う人はここに来て、羅馬よ、汝が威力は不死不滅なりといはん。」(アンデルセン 森鴎外 訳、『即興詩人』より)

アンデルセンの出世作となった小説、『即興詩人』(1835年)。イタリア人の青年アントーニオと、美貌の歌姫アヌンツィアータの哀しい恋の物語は、デンマークで版を重ね、また各国語に翻訳されてヨーロッパ中で反響を呼びました。日本では、森鴎外の翻訳がその格調高い文体によって、翻訳文学の最高峰の一つに数えられています。

小説としての『即興詩人』は、あるいは現代の読者に一種の物足りなさを感じさせるかもしれません。登場人物はみな個性的な面々ではありますが、本質的には一様に「善人」として描かれていますし、また物語の構成はあまりにも空想的、幻想的に過ぎるともいえます。総じて文学作品としての深みにかける、というのが、現代の一般的な評価のようです。およそ150年前に人々を熱狂させた『即興詩人』に対するこうした見方は、19世紀前半のロマン主義と近代以降の美学的、倫理的、そして文学的価値観の相違(断絶)の一つの例といえます。

しかし、「近代小説の要件」を満たしていなかったとしても、『即興詩人』にはその不備を補って余りある魅力が備わっているように思えます。それはアンデルセンの豊かな、そして繊細な感性であり、主人公をはじめとする登場人物は全編をとおして生き生きと、魅力的に描かれています。そしてイタリアの風景を描写するとき、彼の詩心はその胸のうちから止め処なく溢れ出るかのようです。ローマにはじまり、カステッリ・ロマーニ、ナポリ、ポンペイの遺跡とヴェスヴィオ火山、カプリ島、ヴェネツィア、ミラノ、そして町と町を結ぶ街道にいたるまで、『即興詩人』はまさにイタリアの美に捧げられた小説といえるほど、景観の描写に多くの紙数と情熱が費やされています。イタリアに対する憧れは、寒く、暗い北欧の詩人にとって、格別のものがあったのでしょう。画家の目をもつ詩人は、一枚の絵画を描くように、イタリアの風景を歌いあげます。

詩人の描くイタリアのなかでも、ローマはその歴史、文化、芸術の中心として、特別の意味をもっていたように思えます。それは多くのデンマーク人が共有する、一種の憧れでもあったのでしょう。19世紀後半以降、西欧における芸術の中心地はローマからパリへと移っていきますが、古典古代の遺産と明るい太陽は、北欧に限らず、その後も多くの芸術家たちを彼の地に惹きつけました。19世紀の半ばには、デンマークを中心にスカンディナヴィア協会(Circolo Scandinavo)がローマに設立されています。同協会には美術家のみならず、文学者や科学者、起業家など、ローマを訪れる北欧の知識人階級が集い、彼らの交流と情報交換の場として機能していました。アンデルセンも初めてのイタリア滞在の折にスカンディナヴィア協会を訪れていますし、1902年にはハマスホイとイーダの名が来訪者のリストに見られます。

19世紀にローマを訪れた画家たちが求めたものは、コロッセオや、悠久のカステッリ・ロマーニ、パンテオンといった古代ローマの遺産であり、またサン・ピエトロ大聖堂やヴァチカン博物館に代表される、イタリア・ルネサンス、バロックの威光でした。「デンマーク近代絵画の父」と呼ばれるエガスベア(C. W. Eckersberg 1783-1853)も1813年から1816年までローマを中心にイタリアに滞在し、「永遠の都」のそこかしこに遺る古典古代の面影を描いています。

エガスベアが描いたローマの景観は、コペンハーゲンに帰国後、彼の弟子たちに影響を与え、その後ローマを訪れる画学生たちがくりかえし描くモティーフとなりました。「ローマ的なモティーフ」は、こうして画家から画家へと受け継がれていったのです。

ハマスホイもその生涯に少なくとも3度イタリアを訪れています。なかでも1902年の10月から翌年2月にかけてのローマ滞在は、カトリック文学者として知られるデンマークの詩人、ヨハネス・ヤアアンスン(Johannes Jorgensen 1866-1956)をはじめ、多くの美術家、文学者と知己を結び、充実した滞在であったことが、家族に宛てた書簡からうかがえます。そしてこの時に制作されたのが、《ローマ、サント・ステファーノ・ロトンド聖堂の内部》です。

この作品に描かれているのは、コロッセオの南、モンテ・チェリオにある聖堂で、5世紀に建造された初期キリスト教時代の集中式聖堂として知られています。ローマ観光の中心から離れているこの聖堂は、スタンダールが『ローマ散策』(1829年)で魅力的に描写しています。しかし、ローマを訪れる外国人の画家が好んで描いたモティーフかというと、どうもそうではないようです。また一般向けの旅行ガイド等でも、観光名所として記述されていたわけではありません。ハマスホイがどのようにしてこの聖堂を「見つけた」のかは、想像に頼る他はありませんが、あるいは同郷の詩人がその着想源であったのかもしれません。アンデルセンは『一詩人のバザール』(1842年)で、この聖堂をローマで「最も美麗な聖堂の一つ」と記しています。

ハマスホイは古書のコレクターとして知られていて、その蔵書は1000冊を越えていました。なかでもアンデルセンを含む、19世紀前半のいわゆるデンマーク黄金期の文学作品はその大部分を占めています。『即興詩人』や『一詩人のバザール』ももちろん、その蔵書目録に含まれています。書籍に留まらず、家具や絵画の趣味においても古いものを好んだハマスホイにとって、アンデルセンを含むデンマーク黄金期という時代がどのような存在であったのか、それはこれから改めて考えてみたいテーマのひとつです。

ローマ、サント・ステファーノ・ロトンド聖堂の内部 《ローマ、サント・ステファーノ・ロトンド聖堂の内部》
1903年
油彩・カンヴァス
67.3 x 72.8 cm
フューン美術館(デンマーク)

プロテスタントであるアンデルセンにとって、カトリックの宗教儀式はドラマティックであると同時に、多くの場合、その過度に演劇的な趣向に、内心少々辟易していたようです。そうしたなかで、当時サント・ステファーノ・ロトンドで一年に一度、12月26日に開かれていた殉教者を祝う儀式は、その簡素さゆえに、より神秘的かつ神聖なものに感じられたのでしょう。

「この聖堂は一年に一度だけ開放される。そのとき、聖堂のなかはろうそくでまばゆいばかりに光輝く。・・・だがここでは、殉教者の偉大な魂をしのぶ思いを高めるためには、何も与えられない。彼らの信仰に宿る力を、信仰のために命をなげうった勇気をしのぶためのものは何も。」

聖堂内の壁面には、聖人の殉教の場面がフレスコ画で描かれています。しかし、そうした絵画的光景は、アンデルセンの心を敬虔な気持ちになるまで高揚させることには、ほとんど無関係であるかのように、そこにはただ、光が満ちあふれています。

『一詩人のバザール』に綴られたクリスマスの翌日の聖堂は、あるいはハマスホイの《ローマ、サント・ステファーノ・ロトンド聖堂の内部》が描きだすような空間だったのかもしれません。ハマスホイの絵画では、蝋燭に代わって南欧の太陽が、壁面に描かれたフレスコ画もぼんやりとしたシルエットに霞むほど、堂内をまばゆい光で照らしています。繊細で審美的な印象を受けるこの聖堂の内部空間は、壁面に描かれた殉教者にではなく、あたかも天から降り注ぐ光そのものに捧げられた聖堂であるかのように、幻想的な浮遊感を湛えています。

サント・ステファーノ・ロトンド聖堂内部 サント・ステファーノ・ロトンド聖堂内部 撮影|筆者

《ローマ、サント・ステファーノ・ロトンド聖堂の内部》は、ハマスホイの絵画作品のなかでも優れた作例の一つといえます。しかしその一方で、数年前にローマを訪れるまで、この絵は私にとってある意味異質な作品でした。それというのも、この作品は様々な点で例外的といえるからです。《ローマ、サント・ステファーノ・ロトンド聖堂の内部》は、その作品のほとんどをコペンハーゲンで制作したハマスホイが、旅先で描いた数少ない絵画の一つです。さらに、イタリアで制作された唯一の作例であることに加え、聖堂の内部空間を描いた作品としても他に例が見られません。そして、とりわけ室内画の準備素描がほとんど知られていない(残っていないか、あるいはそもそも存在していない)のに対して、この作品に関しては、油彩制作以前の詳細な素描が残っています。画家の制作プロセスを知るうえで、素描はきわめて重要な意味をもっています。しかしそれらがほとんど知られていないために、室内画の制作プロセスは今日に至るまではっきりとはわかっていません。そうしたなかで、この作品に関しては、ローマからコペンハーゲンの家族へ宛てた書簡から、その制作過程を比較的順を追って辿ることすらできるのです。

こうした、いわば研究に関連した「例外」に加えて、それら以上に強く異彩を放っているように感じられたのは、光に満ちたカンヴァスそのものでした。画面全体を薄いヴェールのように包む室内画の繊細な光に比べてみれば、《ローマ、サント・ステファーノ・ロトンド聖堂の内部》の光はあまりにも強く、眩しすぎるようにすら思えたのです。一般にデンマークの画家がイタリアの風景を描くとき、そのカンヴァスはしばしば母国で制作された作品よりも明るくなる傾向があります。アルプスを隔てた北と南では、光の質そのものが違って感じられますし、それはある意味では当然のことともいえます。

しかし《ローマ、サント・ステファーノ・ロトンド聖堂の内部》の光の横溢は、単純に北欧と南欧の光の違いに依るもの、というだけではないような気がしていました。一般に教会の内部空間は薄暗いもの、というイメージがありますし、また他の画家の作例にも、ハマスホイの作品ほど透明な光に満ちた堂内を描いたものは見あたらないからです。そもそも、この作品は実際の聖堂を正確に描きだしたものなのでしょうか。あるいは画家の感性はどの程度まで作品に反映されているのでしょうか。《ローマ、サント・ステファーノ・ロトンド聖堂の内部》に対する私の興味は、やがて少しずつ、現実の聖堂そのものへの興味へと移っていきました。そして100年前にハマスホイがイーゼルを立てたその場所へ、私を向かわせたのでした。

はじめて訪れたローマで、道に迷いながらたどり着いたサント・ステファーノ・ロトンドは、19世紀と変わらず、都市の喧噪から逃れた静かな地区にひっそりとたたずんでいました。聖堂を訪れる観光客はほとんどなく、どっしりとした外観には古代の雰囲気が満ちています。しかし、街のそこかしこに古代の遺構が散在するローマにおいては、これといって特筆するような建物ではない、というのがその第一印象でした。

聖堂を管理していたのは、年配の修道女の方でした。彼女には英語が通じず、また私はイタリア語が話せませんので、はじめはどうなることかと思いましたが、身振り手振りでなんとか用件は伝わったようです。一度奥に消えた彼女は、扉の鍵を手に戻ってきました。そして彼女の後ろについて、私は聖堂の入口へと進んでいきました。

鍵がはずれ、扉は軋みながら少しずつ、ゆっくりと開きます。その音は、午前中のまだすこし涼しい空気に染み入るようでした。ハマスホイもきっと、この古い扉をくぐって、堂内に入ったのでしょう。それはほんの数秒間の出来事でしたが、私にはとても長い時間に感じられました。やがて扉の軋む音が止み、辺りは再び静寂を取り戻します。修道女にお礼を言って、目の前に開いた扉をくぐり、聖堂の中へ。堂内の空気はひんやりとしていて、まるで建物と同じだけの時間、この場所に留まり続けているかのようでした。音もなく、空気そのものが静止している空間。そのなかを、ゆっくりと中央の祭壇へ向かって進みます。するといつの間にか、私はすでに光の中にいたのでした。

壁面のフレスコ画は傷みがひどく、ハマスホイが《ローマ、サント・ステファーノ・ロトンド聖堂の内部》を描いた時も、あるいははっきりとモティーフを識別することが難しかったのかもしれません。しかし、それよりも、窓から射す透明な光が淡いピンク色の空間に充満し、まるで堂内に漂う空気そのものが光を乱反射しているかのようで、そこはまさに光の聖堂でした。およそ100年前にハマスホイがこの聖堂を訪れた時も、堂内は光に満ちていたことでしょう。光の体験、そう呼びたくなるような驚きと感動は逃れがたく、北欧の画家であるならばなおのこと、その心を掴んで離さなかったのではないでしょうか。

ハマスホイはイタリアからの帰国後、この作品を大きなカンヴァスに描き直す計画を立てていました。しかし、画家の計画は実現してはいないようです。その原因はよくわかりませんが、あるいは、灰色の低い雲が垂れ込めるデンマークにいながら、まばゆい光に満ちたローマの教会を描くことに困難を感じたのかもしれません。サント・ステファーノ・ロトンドの雰囲気は独特なものですし、その場にいなければ、その空気感を表現することは難しかったのでしょう。それゆえに、ハマスホイはこの作品が完成間近になっても、足繁く聖堂に通わなければならなかったのです。

生涯にわたって幾度となく旅に出たアンデルセンは、当時目新しかったものはくまなく見て回り、それを文章や、時にはスケッチで母国の人々に紹介しました。他方ハマスホイは、旅先の珍しいものやその土地独特のもの、すなわち旅情を掻きたてる風景やモティーフを描くことはほとんどなかったといえます。おそらくローマに対しても、二人は大きく違った印象をもっていたのではないでしょうか。しかし、それでもなお、北欧の二人の「詩人」が光に寄せる思い、そしてその繊細な感性が、数十年の時を隔てて、彼らを結びつけたのでしょう。画家は彼の地で描く唯一の作品に、同郷の偉大な詩人が心惹かれたおよそ「イタリア的ではないモティーフ」を選んだのでした。

萬屋健司

1979年 長崎県に生まれる
旧大阪外国語大学デンマーク語科を卒業後、大阪大学大学院にて西洋美術史を学ぶ
大学院在学中にコペンハーゲン大学に留学
ヴィルヘルム・ハマスホイを中心とする近代デンマーク美術を研究
2008年帰国。同年国立西洋美術館で開催された
「ヴィルヘルム・ハンマースホイ-静かなる詩情」展の図録の一部を執筆
現在、山口県立美術館学芸員