ハマスホイの部屋へ / 萬屋健司

背を向けた若い女性のいる室内

ユトランド半島の中程にあるデンマーク第二の都市オーフース。そこから電車に揺られて1時間と少し北上すると、ラナスという小さな町に着きます。日本の鉄道に比べると、DSB(De Danske Statsbaner:デンマーク国有鉄道)の車両は、どっしりとしていて、とっても重そう。出発する時も「よっこらせ」と言わんばかりに、ゆっくりと走りだします。それは私に、デンマークの素朴であたたかい、そしてちょっとお腹のでた力持ちの優しいおじさん(もちろん、大好物はビールとジャガイモ)を連想させます。とりわけコペンハーゲンを離れて、ユトランド半島のローカル線に乗ると、窓の外に広がるなだらかな風景と、その中をのんびりと走る電車が、思い描いていたデンマークのイメージに、ぴったりと重なるのでした。

オーフースから電車に乗ってラナスの駅に降り立つと、そこは拍子抜けするくらい殺風景な景色に思えます。旅行ガイドにもほとんど載っていないラナスには、これといって観光名所のようなものも見当たりません。しかし、少し歩いて町の中に入ると、レトロな街並みと、細い通りの両側に並ぶこぢんまりとしたお店が、なんとも心地よい雰囲気で迎えてくれました。そこには、古いデンマークの空気のようなものが流れていて、はじめは物足りなく感じられる町も、石畳を歩き、古い建物を眺め、そこで暮らす人たちと同じ空気を吸ううちに、旅人でありかつ外国人であるはずの私の心も、不思議と少しずつ落ち着いていくのでした。自分が「よそ者」であることを痛切に認識しながらも、同時に感じる、ある種の居心地の良さ。それはコペンハーゲンではなかなか味わえない不思議な感覚です。きっと、首都から遠く離れたユランの田舎町で、「古き良き」デンマークに触れ、そして自分もその一部であるかのような錯覚を起こしたからなのでしょう。初めて訪れたラナスは、霧のような細かい雨が降っていましたが、その湿気を帯びた空気すらも、心地よいものに感じられたのでした。そんな小さな町の小さな美術館の壁に、《背を向けた若い女性のいる室内》は掛けられています。

背を向けた若い女性のいる室内 《背を向けた若い女性のいる室内》
1904年頃
油彩・カンヴァス
61 x 50.5 cm
ラナス美術館(デンマーク)

鮮やかなブルーの壁と、シックな黒の装いで鑑賞者に背を向ける若い女性の白い首筋が印象的な《背を向けた若い女性のいる室内》。この作品は、ハマスホイの室内画の中でも、最も有名かつ人気のある絵の一つです。2008年に国立西洋美術館で開催された回顧展では、彼女の可憐な後姿がポスターやチラシのデザインに採用され、多くの人々の目に触れることとなりました。また1998年にニューヨークのグッゲンハイム美術館で開かれた展覧会カタログや、ハマスホイ研究の第一人者であった、故ポウル・ヴァズ氏のモノグラフ(2003年再版)の表紙も、この作品が飾っています。

《背を向けた若い女性のいる室内》に描かれているのは、ハマスホイが1898年から1909年まで暮らした、コペンハーゲンの旧市街にある、ストランゲーゼ30番地のアパートの室内です。ハマスホイは他の作例でも、この部屋をしばしば描いていますから、この部屋の鮮やかなブルーの壁面とシンプルな白い装飾パネルの上品な組み合わせは、画家がとりわけ気に入っていたモティーフだったのでしょう。このアパートで暮らした期間に描かれた作品を通して、ハマスホイは「室内画の画家」としての名声を高めていきました。

ところで、この作品が描かれたのは一体いつだったのでしょうか。展覧会カタログ等には、「1904年頃」とか、「1903-04年」と書かれています。しかし、正確なところはというと、今のところ誰も知りません。ハマスホイの代表作の一つとして、これだけ多くのメディアに露出している作品であるにも関わらず、それがいつ描かれたのか、誰も知らないというのは一体どういうことなのでしょうか。

ハマスホイがいつ、どの作品を描いたかについては、画家の同時代人でその最大のパトロンであった歯科医のアルフレズ・ブラムスンが、1918年に執筆・出版した作品カタログから、ほとんどの作品について、その制作年を知ることができます。380点余りの作品が記載されたこのカタログは、ハマスホイ研究の基礎文献として、現在もその重要性を失っていません。しかし、ブラムスンの記述には間違いや不備もあることから、それらは無批判に踏襲するのではなく、批判的に検証する必要があります。一次資料を根気強く精査し、ブラムスンの記述に訂正を加え、また不足を補うことによって、ハマスホイの画業はより正確に見えてくるでしょうし、それはまた、画家の芸術をより深く理解する助けにもなるのです。

研究者がよりどころとしてきたブラムスンのカタログですが、実はその中に《背を向けた若い女性のいる室内》に関する記述は見当たりません。ハマスホイがまだ駆け出しの頃からその早すぎる死を迎えるまで、生涯にわたって画家の作品を買い続けたブラムスンは、ハマスホイの創作活動をかなりの程度包括的に把握していたと考えられます。しかし、それでもなお、1918年のカタログに記載されていないために、その存在が長く知られていなかった作品が存在します。また《背を向けた若い女性のいる室内》に関しては、ハマスホイの書簡その他の一次資料にも、該当する記述が見られず、同時代の展覧会の記録にも、それらしい作品は見当たりません。つまりは、少なくとも現在までのところ、歴史のなかにこの作品の痕跡を見つけることが出来ていないために、この作品が一体いつ描かれたのか、正確なところがよくわからないのです。《背を向けた若い女性のいる室内》はいわば、歴史の中に取り残された作品の一つ(だった)といえます。

《背を向けた若い女性のいる室内》は、ブラムスンの目に触れる前に、おそらくは画商を通して別のコレクターに売却されたのでしょう。今日知られているハマスホイの優れた作品は、一旦ブラムスンを経由して市場に流れたり、あるいは美術館に入ったりしたものが多く見られます。ハマスホイの顧客のなかでも、さまざまな意味で特別な存在であったブラムスンは、画家のアトリエに足しげく通い、優れた作品を次々に自らのコレクションに加えていきました。ですから、仮にブラムスンが《背を向けた若い女性のいる室内》を目にしていたならば、きっと購入したであろうことは容易に想像できます。そうであれば、ブラムスンのコレクションについてはある程度資料が残っていますから、この作品についても何かしら手がかりが得られたかもしれません。

私が知る限り、この作品がハマスホイの手を離れてのち、はじめて公にされたのは1952年のことでした。画家の生前から個人コレクターの手元にあったこの作品は、約半世紀もの間、所蔵者とその家族、そして彼らに近しい友人たちのためだけに、室内を飾っていたのでしょう。その後、ビールのカールスバーグでお馴染みのニュ・カールスベア財団(Carlsbergは「カールスベア」と発音します)の所蔵となり、1948年に同財団からラナス美術館に寄贈されました。

それにしても、《背を向けた若い女性のいる室内》は不思議な魅力を湛えた作品です。この絵にはハマスホイの室内画の様々な特徴が、きわめて洗練された形で凝縮されています。たとえば、幾何学的な画面構成。画面左端の額縁のラインは、水面に浮かぶ波紋のように、ブルーの壁面を縁取る白のラインへと広がり、その下の白い装飾パネル、蓋が閉じたピアノと、四角いカンヴァスの中で、異なるモティーフが描きだすいくつもの直線が小気味よく、かつ整然と反響しています。このリズミカルかつ厳格に秩序立てられた直線による構成によって、画面は清潔で澄み切った空気に満ちています。そして純粋に幾何学的な世界に爽やかな風を吹き込むかのような、パンチボウルと後ろ向きの女性像が象る滑らかな曲線。ブルーの紋様が可憐な、アンティークのロイヤル・コペンハーゲンの上品なクリーム色と、清楚なドレスの黒の鮮やかな対比。窓から差し込む光が落とすピアノの影は、女性が左手で抱えた盆と呼応しているかのようです。

画面左上にその部分だけが描かれた額縁には、どんな絵が収まっているのでしょうか。絵画の中に別の絵や地図を描きこむことは、珍しいことではなく、たとえば17世紀のオランダ風俗画などにしばしば見られます。その場合、絵画の中の絵や地図(画中画)は、絵画そのものの主題を暗示する、いわば謎解きのヒントとしての機能を持っているのが一般的です。たとえば、手紙を読む女性の背後の壁にかけられた地図は、その手紙が船乗りの夫(あるいは恋人)からのものであることを暗示し、それによって絵画の主題は、航海に出た夫の身を案じる妻の姿であることがわかります。したがって画中画は、そこに描かれているものが鑑賞者にはっきりと見えなければ、絵の意味内容を読み解くヒントにはなりえないのです。しかし、ハマスホイの室内画における画中画は、この作品のように部分しか描かれなかったり、また全体が描かれる場合でも、ぼんやりとして何が描かれているのか判別することはほとんどできません。

ハマスホイは、なにか特定の意味を込めて絵の中に別の絵を描いた、というわけではないようです。むしろ絵の意味内容ではなく、画家の関心はもっぱらその形態に向いていたのでしょう。そうした画家の視線は、パンチボウルや後ろ向きの女性像にも同じように注がれています。カンヴァスの縁で区切られた四角い平面の中で、それぞれのモティーフをどのように関連づけるか。描かれた一つ一つのモティーフが持ちうる意味を飛び越えて、閉じられた絵画空間の中で一つの世界を構築すること。個々のモティーフは意味的な結びつきによってではなく、純粋に形態的、色彩的なバランスによってカンヴァスの上に配置され、そしてそれらが調和する最良の瞬間に、画家は筆を置くのです。この点でハマスホイの感覚は、17世紀のフェルメールよりも20世紀のモンドリアンに近く、またファインダーを覗きこむ写真家のそれに近いといえます。

ハマスホイの生前にはほとんど知られていなかった作品が、約100年後に画家の代表作として語られているのは、考えてみれば不思議なことです。私が《背を向けた若い女性のいる室内》を見るためにラナスを訪れたのは、もうずいぶんと前のことになりますが、ハマスホイの代表作がなぜコペンハーゲンから遠く離れた小さな町の美術館にあるのか、頭をひねりながら美術館を目指したのを覚えています。しかし、今になって考えてみると、この作品とゆっくり対面できたのは、この美術館でだけだったように思います。1890年代の再評価後、にわかに有名になってしまったこの作品が、展覧会の巡回先から帰ってきて、ほっと一息つける・・・。小さな町の小さな美術館は、この絵にとっても心落ち着く場所なのかもしれません。

萬屋健司

1979年 長崎県に生まれる
旧大阪外国語大学デンマーク語科を卒業後、大阪大学大学院にて西洋美術史を学ぶ
大学院在学中にコペンハーゲン大学に留学
ヴィルヘルム・ハマスホイを中心とする近代デンマーク美術を研究
2008年帰国。同年国立西洋美術館で開催された
「ヴィルヘルム・ハンマースホイ-静かなる詩情」展の図録の一部を執筆
現在、山口県立美術館学芸員