絵本の栞 / 水谷英与

記憶のいれもの

写真|水谷芳也

アメリカの絵本作家 ゴフスタインの作品に、『おばあちゃんのはこぶね』があります。

「はこぶね」ということばから、誰もが最初に思い浮かべるのは、旧約聖書の「ノアの方舟」のことでしょう。この絵本も、その話を前提として成り立っています。もし「ノアの方舟」を知らなくても、1冊の絵本として楽しむことはできますが、話を知った上で読み返すと、その何倍も楽しいと思います。

たとえば、表紙の絵。

降りしきる雨を、部屋の窓から眺めている女性の後ろ姿と、その傍らの、テーブルの上に舟が描かれています。題名を表す絵ならば、おばあちゃんと方舟があればよいわけで、女性を正面に向けて、その顔を見せることもできたはずです。けれど、ゴフスタインは窓の外に雨を降らせています。雨のイメージは、とおい遠い昔、ノアたちが逃れた洪水を、私たちに思い起こさせてくれ、また、おばあちゃんが私たちに向けている背中と、手にした杖は、時間の流れを感じさせるのに十分です。『おばあちゃんのはこぶね』は、本文が始まる前から、すでに物語が始まっていると、私は表紙を見るたびに思うのです。

この絵本を、ゴフスタインは、黒くて細い線で描いています。白い画面にペンだけ、色はなし。背景もありません。文章は、詩のようにどれも短いのですが、おばあちゃんの生涯を、私は、隈なく知ったような気になるのです。余白の効果でしょうか?何もない画面を見つめていると、自分自身の過ごしてきた時間まで、そこへ投影されてくるようです。そして、いつしか絵は色を帯び、背景がゆっくりと目の前に立ちあがってきます。

はこぶねは、おばあちゃんがまだ小さな子どもだったとき、彼女のおとうさんが作ってくれたものです。

つくるのがたのしそうだった、
どうしてかというと、

とびらのむこうから
きこえたことがあったから、
かみさまみたいなげんきなこえが。

「ながさは三百キュービット」

手渡された時に、はこぶねの中に入っていたのは、ノアとノアのおくさん、二とうのぶちのあるヒョウと、二とうのおとなしいヒツジ、二とうのはいいろのウマと、二わのしろいハトですが、何よりも先に入っていたのは、おとうさんが楽しみながら作っていた時間と、その時の気持ちです。小さな子どもだった彼女にも、はっきりとそれは伝わり、おとうさんの気持ちがつまったはこぶねは、お嫁にいくときも、母親になってからも、いつも彼女の側にありました。

大切な人、心から愛していた人の声や、息遣い、交わした言葉や、抱いていた気持ちを、私たちは目で見ることも、手にすることもできません。その代わりに、共に読んだ本のページに触れたり、似合っていたシャツをお日様の下に干してみたり、花を買って花を挿したり、贈られたもの、好きだったものを触ることによって、見えないものが確かに「ある」ことを確認し、気持ちの「いれもの」になっているものを心から慈しむのでしょう。

長い年月の間、おばあちゃんのはこぶねも、多くのものを乗せて(入れて)きました。

夢中で遊んだ子ども時代の喜びも、母となり自分の子どもたちが、はこぶねで遊ぶ姿を見守る時の、心がほぐれていくような嬉しさも、やがてその子どもたちも大人になって、はこぶねが再び自分ひとりの元に戻ってきた時の寂しさもー。

よろこびとかなしみは
にじのよう、

それがわたしをあたためてくれる
おひさまのように。

最後の見開きページには、そう書かれ、ベッドの中から、おばあちゃんははこぶねを見つめています。

誰の人生も、喜びだけで成り立っているはずはなく、悲しいこと苦しいことつらいことせつないことと層を成しているからこそ、間にある、嬉しさや楽しさが際立ってくるのでしょう。

「はこぶね」は、人の手から作られたものと、それを贈られた人との最良の関係を示してくれました。そして同時に、「もの」として存在するということ、存在し続ける「もの」を作り出すということは、時間の蓄積や、人の記憶や想いなどを、すべて引き受けることでもあるのだと、私に教えてくれたのです。

『おばあちゃんのはこぶね』 すえもりブックス
作・絵 M.B.ゴフスタイン
訳   谷川 俊太郎

水谷英与

日本大学芸術学部文芸学科卒業
カメラマンの夫とともに1992年から一年間をニューヨークに暮らす
長女の誕生をきっかけとして、絵本の世界の扉を開き、
6年前より図書ボランティア(絵本の読み聞かせ)を続けている
夫のデザインとシルクスクリーンによるTシャツショップ
BOOTS & STICKSを運営中 http://bootsandsticks.com/