絵本の栞 / 水谷英与

帰る場所

オーケストラの105人 写真|水谷芳也

好きな街(町)はありますか。

生まれ育った町でも、今住んでいる所でもない、特別な場所‥長い年月の間に、何度も繰り返し訪ねている街かもしれないし、一度だけ途中下車した駅がある町かもしれないし、いつか読んだ本にでてきた、海が見える場所かもしれません。そこには、自分だけにわかる親密な空気が流れていて、その匂いや気配で、私たちはそこが自分にとっての特別な場所であることに、気がつきます。

『オーケストラの105人』という絵本を開き、最初の、10行に満たない文を読むと、私はいつでも私の好きな街のことを、そんなふうに思い出すのです。

金曜日の夜です。
そとは だんだん 暗くなり そして
だんだん 寒くなってきます。
お家や アパートに
あかりが ともりはじめました。

町では
山の手 下町 橋のむこうがわで
105人のひとが
しごとに出かける したくをしています。

原題は『The Philharmonic Gets Dressed』。

金曜日の夜に仕事に行くのは、その題名から、オーケストラの団員たちだと察しがつき、Gets Dressed とあるように、メンバー105人の身支度の様子が話の中心をなしている、ユニークな視点で描かれた絵本です。

105人は、まず皆お風呂やシャワーに入り、白いシャツと黒いズボン(13人いる女性は黒いスカート)を、最終的に身につけます。そして思い思いの防寒具をまとい、夜の町へと出かけていくために、それぞれの家やアパートメントのドアを開けます。

ドアの外は、ひんやりとした夜の空気です。彼らはすこしその空気を吸うでしょう。空の様子をちらりと見上げる人もいるかもしれません。その後で、外への一歩を踏み出すとき、きっと振り返るはずです。

105人の 男のひとと 女のひとは
みんな「いってきます」と いいます。
おかあさん おとうさん ご主人 奥さん
また 友だち 子どもたち 犬たち
小鳥たち 猫など 家に のこるものに
「いってきます」と いいます。

部屋の中は暖かく、そこに居る家族(犬や猫や小鳥たちも)は、ゆったりした表情を浮かべたり、いつものことだからと慣れっこの態度だったり、留守番のつまらなさを露骨に表したりと、飾らない普段着です。一方、これからバスや地下鉄やタクシーに乗って、音楽ホールへ向かう105人は、ドアを境に、冷たい空気の中で、しだいに「外」の顔になってゆくでしょう。ぱたんと閉まった、ひとつのドアのこちら側と向こう側で、家族の時間と仕事の時間が別々に、淡々と進んでいきます。

ぱたんとドアが閉まったとき、その内側に居て、ふいに泣きたいような気持におそわれたことがあります。その時私は結婚したばかりで、朝、夫を見送った後でした。新しいテーブルに向かい、ひとり椅子に座った私の周りは、とてもひっそりしていたことを覚えています。寂しいわけでも、不満があるわけでも、もちろん悲しいわけでもないのに、感情が大きく動いたことにとても戸惑いました。何度思い返してみても、その揺れはどこからきていたのか、よくわからないままです。

金曜日の夜、コンサートホールでの仕事を終えた105人は、さらに寒くなった夜の町へと再び出て、タクシーや地下鉄を乗り継ぎ、やがて自分の部屋や家へ戻ってきます。本の中には出かける場面しかありませんが、「ただいま」と、105人それぞれが、それぞれのドアを開けたときの様子を心の中で描くことは容易です。

家族となった人が帰ってくる場所に、自分が居るという事実が、あの時の私の気持ちを揺さぶったのでしょうかー。自分の選んだ場所に居るということを、ひとりになった部屋の中で、初めて意識した心の震えだったのでしょうかー。

あれから20年余りの時間が過ぎても、いまだにこれだという答えはありませんが、この絵本を開いたときに立ちのぼる親密な空気と、同時におこる郷愁にも似た気持ちは、あの時の揺れの記憶とどこかで繋がっているような気がします。それは、匂いから思い出が呼び起こされたり、懐かしい歌がふいに口をついて出るときと同じで、まったく自分で予測できないことであったはずなのに、起こったあとでは、必然のことのように思えるのです。

『オーケストラの105人』 すえもりブックス
作 カーラ・カスキン
絵 マーク・サイモント
訳 岩谷 時子

水谷英与

日本大学芸術学部文芸学科卒業
カメラマンの夫とともに1992年から一年間をニューヨークに暮らす
長女の誕生をきっかけとして、絵本の世界の扉を開き、
6年前より図書ボランティア(絵本の読み聞かせ)を続けている
夫のデザインとシルクスクリーンによるTシャツショップ
BOOTS & STICKSを運営中 http://bootsandsticks.com/