絵本の栞 / 水谷英与

待つということ

エミリー 写真|水谷芳也

エミリー・ディキンソンという詩人を知っていますか?

彼女は1830年にマサチューセッツ州アマーストに生まれ、1886年に亡くなるまで、生涯の多くの時間を、生家である屋敷の中で過ごしたそうです。

その詩人の名前が、そのままタイトルになった『エミリー』という、美しい創作絵本があります。

絵本の中の、エミリー邸の向かい側には、両親とともに少女が住んでいました。ある日、エミリーから少女の母親宛てに、ピアノを弾きに来て欲しい、という依頼の手紙が届きます。少女は、母親と一緒にエミリー邸を訪れる際、同封されていたブルーベルの花びらのお返しに、「贈り物」を持って行くことにしました。

右手にひとつ、左手にひとつ。少女が掌に乗せてエミリーにさし出したのは、白ユリの球根でした。球根は、この絵本の中で、待つことの象徴です。エミリーは自分が書いた詩が、世の中に出て行くことを待っているし、少女はおとなになるのを待っています。かさかさで枯れたように見える球根から、やがて美しい花が咲くという事実は、過ぎて行く時間が無駄ではなく、必要不可欠だということを教えてくれます。

しかし、待つということは、必ずしも静かな喜びに満ちているわけではなく、時には、その時間の重みだけを、私たちに押しつけてくるように思えます。

誰かを待つー。先にある何かを待つー。

待っていることが、長くつらく感じられるのは、それが最良の方法だと、頭では十分に理解しているにもかかわらず、それしかできない自分が、とても無力な存在に思えるからです。待っている対象が、自分にとって大切な人やものごとであればあるほど、待つと決めた人は、無力感に苛まれ、闇の中に、置き去りにされたような孤独を感じるのではないでしょうか。

もしも、闇の中で手さぐりしている人がいたら(あるいはある日自分が迷ってしまったら)、私は、絵本の最後から2ページ目を、そっと開いて教えたい(思い出したい)と思っています。

そこには、自分の家の花壇に球根を植えている、少女とエミリーがそれぞれ描かれています。二人は別々の場所に居て、丁寧に作業を進めながら、心の真ん中に置いているのは、互いのことです。交わした幾つかの短いことばの端々が、胸の中でいったりきたりしていることでしょう。少女とエミリーの間には、目に見えず言葉にもならない何かが、通いあっていることがわかります。

たとえばそれは、ゆうべの満月を、友が同じ時刻に見上げていたのだということを、後から知ったときに、心が得る安らぎと似てはいないでしょうか。その場所に居るのは自分ひとりだけだと思っていても、ほんとうは誰もみな、大きな空の下にいて、どこからか吹いてくる同じ風に、頬を撫でられ、髪をなびかせているのです。

待つという孤独の闇にのまれそうになったとき、救いとなってくれるのは、そういう種類の安らぎだと思います。

わたしは、高い生垣のむこうにある庭で、エミリーがわたしのおくりものを、
地面にうめているところをおもいうかべました。
もうすぐ、お日さまと雨のたすけをかりて、球根はぐんぐん大きくなるでしょう。

そうして、美しい花が咲いたとき、それまでの色々な想いと時間が、その花に重なっていくのです。

エミリー』 ほるぷ出版
文 マイケル・ビダード
絵 バーバラ・クーニー
訳 掛川 恭子

水谷英与

日本大学芸術学部文芸学科卒業
カメラマンの夫とともに1992年から一年間をニューヨークに暮らす
長女の誕生をきっかけとして、絵本の世界の扉を開き、
6年前より図書ボランティア(絵本の読み聞かせ)を続けている
夫のデザインとシルクスクリーンによるTシャツショップ
BOOTS & STICKSを運営中 http://bootsandsticks.com/